しづごころなく

読んだ本についてとか

三島由紀夫『金閣寺』

この小説についてはだいぶ前に少し読んだことがあったけれど、途中で読むのをやめてしまっていた。読んでいて先が気になるというタイプの小説ではない。いかにも文学というストイックな文章なので、読み続けるのには忍耐力がいる。けれども今回はとにかく読み通してみようと思った。

前に読んだときには、比喩をはじめとするレトリックが豊富で極めて品質の高い文章という印象だった。今回通して読んでみて思ったのは、名作だけれど大傑作というほどではないなということだった。素晴らしい点がある一方で、力の配分が少し悪くて余分になってしまっているところが多々あるように感じた。

風景と行動の描写はとにかく素晴らしい。それらは多分小説を書くうえで最も難しい要素だろう。緊迫した状況で人物の行動をありありと描くには、作者が透明にならなくてはいけない。けれどそのような状況では普通、作者も緊張したり力が入ったりして、そうではない場面と比べて不自然になってしまう。それでもそういう緊張感が高まる状況で淡々とすいすいと言葉が流れていくのは最高級の小説の条件だと思う。それに関してはとにかく『金閣寺』は見事というほかない。

ただし、心理描写や思想の展開、官能的な趣味という点に関しては、若干の退屈さを感じた。たとえばオスカー・ワイルドの『ドリアングレイの肖像』で展開される反道徳的な思想・趣味は、切れ味があり爽快感を感じる。けれど三島由紀夫の反道徳的な心理の描写はくどさがあり、陳腐さを感じるほどだ。もしかしたら、三島由紀夫は極めて道徳的な人間だったのかもしれない。だから悪に惹かれていく人物を生き生きとかけなかったのかもしれない。単に一つの小説を読んでの意見だが。

三島由紀夫の文章は読者をとても遠くに連れてゆくことのできる優れたものだ。けれども『金閣寺』のような作品では空を駆けるような想像力が働く余地がほとんどない。それが残念だ。他の作品をほとんど読んでないのでなんとも言えないが、もしかしたら作者の嫌いかもしれない「美しい幻想」を、このような見事な文章で描いた小説がもし読めたらと思った。

横光利一(初期短編)

川端康成の小説は好きだけど、文章は上手だと感じない。小説を読んでいてもそうだし、引用された言葉をみても毎度そう思う。それは自分の感性に足りないところがあるのかもしれないとも思うが、自分としては川端康成の文章が好きになれない。

一方でそれはある程度、スタイル(新感覚派)からくる要請なのかもしれないなと思っていた。それだから同世代で同じ「新感覚派」とされる横光利一も同じような特徴があるのだと思っていた。つまり多少読みづらい文章で書かれているというイメージがあった。だけれど今回横光を初めてちゃんと読んでみて、その印象はまったくの間違いだということがわかった。

横光利一は、素晴らしく文章が上手だ。切れ味の鋭いナイフを煌めかせながら振り回すような鮮やかさがある。息を飲んで目を見張るような描写がところどころに置かれていて美しい挿絵を見るような楽しさを与えてくれる。

それは彼自身が文章を書くときの生理のようなもので、いってみれば磨かれた才能のようなものだと思う。でも彼の小説を読んだ人はだれでも感じることだけど、もっとも価値あるものはもちろん別のところにある。それは象徴的とか観念的といった言葉で表されるものだ。自分にとっては、カフカの短編を読んだときに近い感覚があった。

まだ横光利一の作品のうち初期の短編を五編読んだだけだけれど、『蝿』は(自分の知っている)日本文学のなかで珍しい傑作だと思った。読んでいて、部分部分は最高のものではないかもしれないけれど、全体を通して達成されたものはなかなか見ることのない高いものだと思う。それが珍しいのは、極めて作為的、構成的だからだ。日本の文学では、作為的ではない自然な流れ、感覚的なものが重視される傾向があると思う。対して横光利一の作品は、自然の流れを切って、文学的に精錬された滋養のある記号を配置して知的な構成物を作り上げている。そしてその各パーツが複雑な曲線を描き、奇妙で、予測不可能な運動をしている。とても高度で独創的だ。

横光利一の初期短編には、時代や国を超えた力をもつ可能性を感じた。一方で、このままではぶつかるだろう壁も同時に感じた。

横光利一のいろいろな試みは、短編という枠では非常にうまくいくだろうけど、それ以上長い作品にすることが難しいのではないか、という印象があるのだ。しかしその困難を超えたとしたら、時代や地域を超えた普遍的な価値をもつ作品ができるだろうとも思わせる。この作家が、もし長編小説を書いたとしたらどんなものになるだろうか、底知れない可能性を感じるのだが。

もちろん彼の文学が、今まで日本に存在した文学のもののうち最良のもののひとつであることは間違いない。どれもが新しくて驚きに満ちていて、そのような小説をいくつも読めることは疑いもなく幸福なことだと思う。